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書評

デヴィッド・ハーヴェイ著『ネオリベラリズムとは何か』

本橋哲也訳、青土社2007

『図書新聞』2007.6.2. 3頁.

評者・橋本努

 

 

 現代の左派諸思想にあって、その最大公約数となるのはおそらく、「ネオリベラリズム(新自由主義)」に対する批判であろう。「なにはともかく、ネオリベ体制は最悪である」というのが、現代左翼の通底音であるように思われる。

日本においても例えば、九〇年代後半から現代にかけて、実に多くの雑誌が「ネオリベ批判」特集を組んできた。『日本教育法学年報』、『科学的社会主義』、『ポリティーク』、『土地制度史学』、『総合社会福祉研究』、『ラテンアメリカレポート』、『賃金と社会保障』、『経済』、『社会評論』、『労働運動研究』、等々。ざっと挙げただけでも、これだけの雑誌が特集を組んでいる。書物においてもいろいろな批判書が出版されているが、このイデオロギーを最深部において論じた良書はおそらく、デヴィッド・ハーヴェイの本書を措いて他にはないであろう。

 本書は小著ながら、きわめて示唆に富んだ珠玉の作品である。三つの章からなる本書は、ハイデルベルク大学における二つの講演と、「空間論」に関するエッセイを収録する。ほぼ同時期に、著者の別の著作『新自由主義』(作品社)の翻訳も刊行されているが、本書『ネオリベラリズムとは何か』の第一章はその縮約版で、残る二つの章は、ハーヴェイの理論的エッセンスをまとめたものである。いずれの章も、左派理論の現代版を示す感性豊かな論稿と言えるだろう。

一九三五年生まれのハーヴェイが理論家として歩み始めた六〇年代には、ネオリベラリズムなど取るに足らない思想であって、その頃の左派は「社会主義体制」へ向かうことが「歴史の法則」であると信じていた。しかし歴史は左派の信念を大きく裏切り、七〇年代以降にはグローバルな水準で「ネオリベ体制」が確立されていった。では七〇年代以降に、「ネオリベ体制」が支配的なモードとなったのはなぜか。ハーヴェイはその史的展開を、一九七三年にチリで起きた左派社会主義政権に対するクーデターから説き起こし、七〇年代に生じた「資本蓄積の危機」を克服する手段として、ネオリベラリズムの諸政策(例えば市場競争の促進)が採られていった過程を鮮やかに描き出している。

七〇年代、ニューヨークの投資銀行に集まった余剰資金は、ラテン・アメリカ諸国に投資されたものの、その多くは債務不履行に陥った。すると途上国は、その借金の返済計画を変更する代わりに、自国の体制をネオリベラリズム化することをIMFに誓った。こうして途上国は、金融資本の象徴たるIMFによって、半ば強制的に「体制転換」を迫られていったわけである。

無論、現代のネオリベラリズムは、安定した体制ではない。その内部には、「権威主義」対「個人の自由」、「競争」対「多国籍企業の独占」、「自由」対「社会不安」といった構造的矛盾があり、これらの矛盾を解決すべく、さまざまな抵抗勢力が活動している。しかし著者によれば、抵抗勢力の多くは「ネオリベ体制」を補完するものにとどまる。例えば、「普遍的人権」を掲げるアムネスティ・インターナショナルや国境なき医師団のようなNGOは、ネオリベ体制を基本的に承認したうえで、人権を掲げている。また、ナショナリズムや道徳共同体の理念による市場経済の抑制は、現在、「新保守主義」のイデオロギーとして台頭しているものの、これもまたネオリベ体制を補完するにとどまる。つまり、人権派も新保守主義も、ネオリベ体制を覆すことはできないのであって、この体制を根底から否定するためには、新しい「階級」闘争を闘い、基本的権利よりも、諸々の派生的権利を優先するような社会を築くべきだ、というのがハーヴェイの主張である。

 こうしたハーヴェイの主張は、あまりにも抽象的で、現体制を転換するだけの構想力をもっているとは言えないであろう。理論家としてのハーヴェイの魅力はむしろ、本書の残りの二章において、グローバル資本の動態を「地勢学」の視点からみるという、新たな方法の提示にある。例えば、北海道のある町で工場が閉鎖され、タイのある町に新しい工場が作られるという現実があり、私たちの「生活世界」は、グローバル資本の空間的再編によって、深刻な影響を受けている。こうした現実がもたらす不安を理論化するためには、ローカルな空間で生じている意味と、そのあいだを結ぶ市場の関係、それから、私たちの想像において生きられる世界の意味(例えば「資本主義のヘゲモニー」とか「もう一つの世界は可能だ」という想像)という三つの要素を、既存のマルクス主義理論に統合しなければならない。ハーヴェイの地勢学は、個々の生きられた空間の意味をすくいとるための、新たな理論化を試みている。

 ハーヴェイは明確に述べていないが、こうした地勢学のアプローチがなぜ重要なのかといえば、現代のネオリベ体制というものが、私たちに「生きる意味」を備給しないからであろう。私は最近刊行された拙著『帝国の条件』のなかで、ハーヴェイとは異なる視点からネオリベラリズムの総合的な分析を試みており、そこで至った結論は、「神義論の不可能性」という問題であった。ネオリベラリズムの思想は、現体制のなかで「なぜ私は幸せなのか/不幸なのか」という問い(神義論)に、答えることができない。「生きられた意味」は、文脈に埋め込まれていたり、イマジナリーなものであったりして、ネオリベ体制の現実および思想のなかには、求めることができない。

ハーヴェイのいう「革命の可能性論」には納得しがたい(拙著ではトービン税や関税構想をもって具体的なオルタナティヴとした)としても、「生きる意味」や「生の不安」を理論化するという氏の企てには、大いに学ぶべき点がある。おそらくハーヴェイの魅力は、革命の不可能性において、その苦悩を理論化するという点にあるのではないか。本書はその意味で、「批判理論」の現代版と言えるだろう。